大噴火によって歴史の舞台から姿を消した"小さな王国"がインドネシア小スンダ列島のスンバワSumbawa島で発見された、との発表がなされた。

島の北部にあるタンボラ山Tamboraが大噴火を起こしたのは1815年のこと。そのとき犠牲になった人は117,000人にも及ぶと推測されている。
発表を行なったのはロードアイランド大学の火山学者Haraldur Sigurdsson氏率いる調査チームで、今回の発見を"東洋のポンペイPompeii of the East"と称している。
ポンペイは、A.D79年のヴェスヴィオ火山Mount Vesuviusの大噴火によって灰の中に埋没した都市である。
Sigurdsson氏によれば、今回発見されたタンボラには、独自の文化が栄えていたことが伺えるという。
調査チームは2004年に、地元ガイドの助言によって、噴火によって堆積した軽石と灰の分厚い層が走る小さな峡谷で、タンボラの遺跡を発見した。地元住民によれば、その地域では以前にも人工の遺物が発見されていたという。調査チームは地中レーダーを使い、周辺を調査したところ、1件の小さな家屋を発見した。
家屋の中には、2人の成人の遺体と彼らの遺留品が残されていた。銅製のおわんや陶磁器、鉄製の道具や家具など様々なものが発見された。遺物の様式や模様からして、ベトナムやカンボジアと交易があったことが伺えた。

Sigurdsson氏によれば、住民が使用していた筆跡も発見されており、その文字から察するに、インドネシア周辺の言語とは全く異なっており、どちらかというとカンボジアやラオスなどの言語に類似しているという。
Sigurdsson氏に同伴した、シアトルのワシントン大学の文化人類学者Peter Lape氏によれば、アジア南東部の歴史の1ページとしてこの発見は追加されるべき、としている。
植民地時代には同地域はオランダの配下に置かれることになるが、オランダは交易に関しては熱を入れたが、政治に対してはあまり口を挟まなかったために、スンバワ島のような地域の存在はそれほど重要視されなかったと推測できる。そのためオランダの史料にもその記録がほとんど残されていないのではないだろうか。
1815年のタンボラ火山の大噴火によって、周囲100平方キロにわたって溶岩や砕けた岩、粉塵などが撒き散らされ、さらに噴出した4億トンもの硫黄ガスが上空43キロまで舞い上がり、大気圏にまで達した。
1980年に起きたワシントン州セントヘレナ火山Mount St. Helensの噴火での被害範囲は0.5平方キロ、1883年のインドネシアのクラカタウ火山Krakatau(Krakatoa)の噴火では15平方キロ、ポンペイを壊滅させたヴェスヴィオ火山は6平方キロ。これらと比較してもタンボラ火山の噴火がいかに巨大なものであったかが想像できるだろう。
「タンボラ火山の噴火の規模はどこをとってもとてつもないものです。ここ最近(地球誕生から考えて)では、まさに最大の噴火です。」とSigurdsson氏は述べる。
タンボラはこの大噴火によって、それまで4200メートルあった標高が一気に2800メートルになってしまった。そしてその頂上には深度1250メートルもの巨大なカルデラが口をあけているのである。
放出され大気圏にまで届いた硫黄ガスは、太陽光を反射するエアロゾル(浮遊粉塵)の幕を形成してしまった。そのためエアロゾルの飛沫が地上に落ちるまで1年間続いた地球寒冷化現象が1816年に起こり、その年は"夏のない年"として歴史的に記録されている。
夏が無いということは、もちろん作物にも影響があり、その年は世界的な大飢饉となり、さらに200,000人が蔓延した病気にかかって命を落とした、とSigurdsson氏は言う。
歴史研究者によれば、この噴火の影響でニュージーランドに住んでいた農民たちは、田畑を捨てて西の方角への大移動を余儀なくされたのだという。
火山学者であるSigurdsson氏は、このタンボラ火山の噴火についてより詳しい調査うために、同僚のSteve Carey氏とともに、1986年インドネシアへと足を運んだのであった。
そこで彼らは2年ほどカルデラの調査を行なった後、地元ガイドからあることを耳にした。それは、地元住民がカルデラから25キロほどいったあたりで、複数の陶器や銅製の破片を発見したという内容であった。
Sigurdosson氏は語った。「その情報を得た私たちは、2004年に探索を開始しました。すると私たちに発見されるのを待っていたかのように、すぐに今回発表した町を発見したんです。」
「その町は、海岸から8キロほど奥にいったところにあり、その町の配置はよその島々の海賊から身を守るためのものであるかのように感じました。」
調査チームが地中レーダーを使いながら、噴火の堆積物の下を探索していくと、住民が破片を拾ったと証言した地点でレーダーに町の姿が映し出された。
それから発掘作業が開始され、6週間後、1件の家屋の残骸が地表に現れた。その家屋は噴火の超高温の熱によって炭化していた。
Sigurdsson氏を最も驚かせたことは、カンボジアやベトナム産のものと推定できる磁器が発見されたことだ。それはすなわち、タンボラの人々とそういった国々との交易が盛んだったという裏づけになるのである。
彼は言う。「タンボラの人々の暮らしはかなり裕福なものであったようです。私はタンボラについての記録が残された史料から、彼らが馬の輸出を行なっていたことを知っています。」
史料の中からは、馬のほかにも、蜂蜜や、赤い染料作るために使用されるスオウsap(p)anwood(熱帯アジア原産のマメ科の低木)、そして香料や医薬として重宝されていたビャクダンの貿易にも携わっていたことが伺える。
現在、Sigurdsson氏は調査を終え、一旦帰国しているが、遅くとも2007年までに再び現地を訪れる意欲を示している。
史料の中でSigurdsson氏が鋭い興味を示したのは、巨大な木造の"城Palace"であった。彼は付近の町々に残る似たような構造物の史料を根拠に、その城が今回発見された家屋のすぐ近くに眠っていると確信している。
しかし、一緒に調査を行なったLape氏は言う。「"kingdom"や"Palace"という言葉を用いると本来とは少々異なるイメージを与える可能性があります。同地域において、"kingdom"と呼ばれている場所は、植民地時代のオランダの地図を見ると、"小さな村"が記されているのです。つまり、そこには地域による言葉の不一致があるのです。」
「島周辺の村々の多くは、17世紀後半中期にイスラム教を支持するようになり、結果、政治形態もイスラムの教えに則ったものになりました。しかし、建造物に関して言えば、イスラムの影響は全くと言っていいほど受けていないのです。」
【source】- "Lost Kingdom" Discovered on Volcanic Island in Indonesia(National Geographic News)
- Scientists Claim to Find Lost Civilization(RedOrbit)
- 'Pompeii of the East' discovered(BBC)

